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どのように日本語で発音するか・・・

J.S.バッハの「オルガン小曲集」という曲集は、オルガンを習っている人ならその中の数曲を弾いたことがあるか、または名前を聞いたことがあるかと思います。
Orgelbuechlein(Orgelbüchleinという綴りですが、パソコンがウムラウト対応で無い時はeをウムラウトの代わりに使います)は、カタカナで書くなら「オルゲル・ビュッヒライン」です。
Buchはブーフと言って、本と言う意味ですが、-leinには小さいモノという意味がありますので、日本語に訳すと「小曲集」となっています。
よく、オルゲル「ブッフェライン」とか、「ビュッヘライン」とか、「ビュッフェライン」とか、「ブッヒライン」と発音してしまう人がいるようですが、「ビュッヒライン」です。

教会音楽の問題は、奏楽者だけのものではないと思います。

一か月にひとつの記事をブログに載せないと、このブログには宣伝が載ってしまうので、自分のお尻を叩くには良い制度だと思っています(笑)
いやいや、本当は書きたいことはいくつかあるのですが、なかなかうまくまとめられなかったり時間がないと自分に言い訳したりで、更新が滞っています。

先日拙宅ですご~~く面白い会合を持ちました。
東北、関東、東海、関西から10名を超える教会礼拝奏楽者が集まったのです。
参加者の約半数は音大オルガン科出身の奏楽者です。
参加者の約半数は音大オルガン科出身ではありませんが、奏楽の奉仕につながり、日々奏楽について考えてくださっている方々です。日本ではこういう方々が教会の礼拝を支えてくださっています。
プロ・アマ超えて、奏楽者として日頃教会で感じていることをたくさん話し合い、多くのことは、「実は他の人も同じように思っているのね」という内容でした。
意識の高い奏楽者が多くいて、奏楽のことを一生懸命考えていて、初対面同士の人も多かったですが、すぐに一体感に包まれました。
それぞれの教会でのことや、他教会でも自分の良く知っている教会の現状を話し合いました。

・オルガンやオルガン音楽について全く知らない役員・長老が、「オルガン委員会」なるものを作ってメンバーになるので、理想のパイプオルガン管理ではなくなる。
つまり、値段の高い楽器なので、他教会の人には触らせないようにしているという現状がある。
また、奏楽者であっても、パイプオルガンを教会に入れたとたんに「自分のオルガン」という意識になり、閉鎖的な教会にしてしまう。
しかし、本来はパイプオルガンは良く練習し、風を通すことによって健康なオルガンになるのです。
奏楽者以外の人もオルガン委員会に加わって、教会全体でオルガン導入・管理を話し合う必要がありますが、奏楽者もそうでない信者も、オルガン音楽とオルガンについての学びが必要だと思います。

・奏楽者同士でレベルの差があるが、突出してレベルが高いと、出る杭は打たれるとなってしまい、奏楽者間のコミュニケーションがなくなる。ライバル視してしまい、お互いに高めあうという健全な姿勢が失われる。ただその教会でいちばん長く弾いているというだけで、オルガン長になってしまい、間違ったアドバイスを他の奏楽者にしてしまう。

・「わたしはプロじゃないから」と言って、上達しない。その割には、「礼拝奏楽は信仰のある人が弾くべき」と言って、いくらその教会の奏楽者よりも上手な未信者がいてもも礼拝でオルガンを弾いてもらうことを拒んでしまう。
未信者でも、礼拝のオルガン音楽に興味を持っている人は意外と多い。
そういう人たちはたとえ未信者であっても、というか、未信者であるからこそ!?自分にとって非日常であるキリスト教の行事に一定のリスペクトを持っていることがあります。
礼拝が当たり前となっている信者の奏楽者よりも、礼拝が特別であると感じている未信者の方が讃美歌をもっと練習してくれることは多々ありますが、信者さんの方がそれをわかろうとはしないことがあります。
讃美歌の練習を通して、キリスト教を学べるのに・・・

・教会外ではアマチュア合唱団がミサ曲などの教会音楽を歌って演奏しているが、本来ならば「キリエ」「グローリア」などのタイトルがついているにもかかわらず「第1楽章」「第2楽章」と呼んでいる。礼拝の中でミサ曲を歌うなどの実習があれば、未信者にも教会音楽やキリスト教について理解が深まるのに、と思う。

・「信仰が大事」とよく言われるが、それがかえって未信者排除につながり、伝道の邪魔になっている。
本来なら、信仰があるならその信仰を練習につなげるべきである。
教会外の方が教会音楽が盛んという現状がある。
教会音楽は宣教・伝道であり、音楽を通してキリスト教を学べるということを、教会の人が良くわかっていない。


・パイプオルガンが弾きたいがために、近くの教会に行かずに、途中沢山の教会をすっ飛ばして片道1時間かけてパイプオルガンの教会に所属する奏楽者がいる。しかも、自分がオルガン当番ではないときには教会に来ない。こういう人は信仰があると言えるのかどうか?未信者でも礼拝のことを学ぼうとする姿勢で、オルガンも習っている人がいるのに・・・

・聖歌隊が練習をしていて、昼食の皿洗いのお手伝いをしなかったら、他の信者から「歌だけ歌っていればそれでいいと思っているの?」と言われた。マルタとマリアになっている。
本来は昼食と皿洗いの奉仕よりも教会音楽の方が大事だということを知らない人が多い。
旧約聖書にも新約聖書にも、礼拝の為にオーケストラがどのように編成されたとか、讃美の歌を歌うことの大切さが書かれている。
音楽は礼拝に直結する奉仕だから、本来は昼食よりも聖歌を歌う練習が優先されるべきである。
また、教会から音楽講習会に補助金を出していたら、生花を聖壇に飾る奉仕の人から「なぜ音楽だけ教会から補助が出て、生花のレッスンには補助が出ないのか?」と言われた。
多くの信者に、礼拝学の学びの欠如がある。

・神学校では音楽の授業が選択制になっているところもあり、牧師自身が音楽を知らない場合がある。
「カンタータって何?コラールって何?牧師なら知ってなきゃいけない事ですか?」と発言する牧師もいる。
自国語で讃美歌を歌うことを勝ち得たプロテスタントなら、知っておかなければならないのですが・・・?


オルガニスト養成にいくらお金がかかっているか、そして礼拝で無料で奏楽奉仕している現状をすべての信者に考えてもらいたい。

・一時間の礼拝に集中し続けるのは大変なので、もともと一人で一時間弾けない人、いつもたくさん弾き間違いのある人は、2人や3人の奏楽者で一つの礼拝の奏楽をすることも可能である。

・弾けない奏楽者に奏楽を辞めてもらうタイミング、病気を持っていて奏楽がままならないのに奏楽を続けたいと思っている人にどうやって奏楽を辞めてもらうかということのむずかしさ。
高齢で弾けない人が、ずっと奏楽を続けていたので自分の生きがいになっていたり、若いころにピアノを習っていたというプライドがあったり(高齢者が子どものころはピアノが習えたというのは確かに「贅沢」なことであり、プライドを高める出来事だったのは理解できます。)して、自分から辞めると言わないことが多いようです。
じゃあ辞めたら辞めたで、場合によっては辞めた途端に認知症になったりすることもあるそうです。
すでに讃美歌の伴奏という体をなしておらず、どこを伴奏しているのかも聞いている方にはわからないということでは、奏楽はやめるべきです。中には、自分のボケ防止、指の訓練の為に奏楽していると言っている高齢者もいるほどで、礼拝の讃美をリードするという役割をすっかり忘れ、自分のためにやっている人もいます。
そんな気持ちで奏楽して、しかも全然弾けてない・・・聴いている方としてはそういう奏楽者は辞めてもらいたい。
しかし、それをどう傷つけずに伝えられるか?

また、心の病を持っている方で、奏楽当日に奏楽ができないとドタキャンになったりして、急遽ヒムプレーヤーでの礼拝になることも。
そういう風では奏楽をお任せすることは難しいです。
でも本人が気づいていないこともあり、周りが伝えるのが難しいことが多いです。

・理想としては、礼拝5分前に讃美歌の番号を言われても形にして伴奏できるレベルになること。

・オルガンが弾けないけれどピアノは弾ける人もいるので、ピアノでの奏楽の可能性も考えたい。

会ではほかにもいろいろな現状が伝えられましたが、ごく一部をここでは書きました。
すべての教会が↑のようではないのですが、多かれ少なかれあてはまる部分は無いか・・・自分の教会ではどうなのか?と考えたいものです。

「他宗教の良い所、どんどん学んでまねしていきましょう!」


面白い記事を見つけました(^o^)丿
キリスト教も運営の在り方について、「他宗教の良い所、どんどん学んでまねしていきましょう!」ですね。
http://www.higan.net/ebn/2014/03/post-6.html

もう一度考えてみたいこと

2011年5月に「信仰が技術か」というタイトルで、奏楽者にとって必要なのは?ということを書きました。
http://organistin.blog60.fc2.com/blog-entry-133.html

この記事に関して、こちらが予想していた以上の反響があり、読んでくださった方、メッセージくださった方、本当にありがとうございました。

先月もこの記事についてメッセージをいただきました。

メッセージくださった方は長野の教会に通っていらっしゃいます。
その教会では、レントの時期にベートーヴェンの悲愴をドソミソの伴奏で弾いてしまう奏楽者がいるそうです
その奏楽者は教会付属幼稚園の先生(未信者)で、聖書の学びは拒否されるんだそうです。
奏楽するときの服装もトレーナー。
牧師や司式者がきちんとした服を着ているのに??

教会の現実の問題です。奏楽者にはいろんなレベルの方がいるのです。
レベルと言っても、技術的なレベルもそうですし、教会で奏楽するということに関してどの程度理解できるかと言うレベルもです。

もしかして、その幼稚園の先生は、嫌々奏楽をしていらっしゃるのかな?
だとしたら残念です。

未信者で奏楽される場合は、頼まれて奏楽する場合と、教会でオルガンを弾くことにあこがれて自発的に奏楽する場合があると思いますが、どちらもキリスト教の知識と理解なしにはできないことです。

また、信者の奏楽者で高齢の方の中には「自分のボケ防止のために指を動かしたいから奏楽している」と公言して奏楽する方もいます。
ボケ防止のためにやっているため、とても好き勝手なテンポで、讃美歌伴奏途中で止まることもしょっちゅうです。
奏楽は、自分のボケ防止のためにあるのではありません。

未信者の奏楽者であっても信者の奏楽者であっても、神様にささげる礼拝であるということをもう一度考えてみませんか?

以前あるテレビ番組で、「今でしょ!」の林修先生が、中卒や高校中退の若い人たちに授業をするというのを観たことがありました。
林先生は、失敗する原因は主に「情報不足」「慢心」「思い込み」の三つだとおっしゃっていました。
奏楽でも、長く続けていると慢心しますし、特に未信者の場合はキリスト教に関する情報不足で、間違った奏楽曲を選んでしまうこともあります。(信者であっても奏楽曲に関する情報不足になることはありますね。)
レントはキリストの受難だから、暗い曲を弾けばいいという思い込みもあります。
わたし自身も気を付けなければならないことです。

神様にささげる礼拝ですから、さらに良いものにするためにはどうすると良いのか?を考え続けていきたいものです。

礼拝出席のススメ

今日はオルガンの生徒が私の所属教会の礼拝に出席してくださいました。
クリスチャンではなくてもオルガンを弾きたいと思っている方が多くいらっしゃいますが、オルガン曲がどうしてもキリスト教に関するものが多く、実際に礼拝に来ていただくとオルガンの役割などをご自身で体験していただけます。
よく、「私は信者ではないのですが、オルガンを聴くために礼拝に参加しても良いでしょうか」と質問される方がいらっしゃいますが、私は「どうぞオルガンのために礼拝に参加してください」とお答えしています。

私自身はキリスト教主義の中学校へ行くまではキリスト教には触れたことがありませんでしたし、オルガンも大学生になってから始めました。
大学を卒業してからスイスの音楽大学でオルガンを勉強することになったのですが、音大を卒業するまで洗礼は受けませんでした。

オルガンを弾くためだけに教会へ行っていたのです。

しかしオルガンを弾くということを続けることは、同時に聖書やキリスト教の勉強をすることと等しいということに気づきました。
賛美歌を伴奏するときには歌詞を見ます。
前奏曲や後奏曲を選ぶときには教会暦を考えます。

私が洗礼へと導かれるようになったのは、音大を卒業後ですが、オルガンとは、キリスト教とは、ということを知らない初心者のうちから、オルガンを習う・弾くからと言って、すぐに「クリスチャンにならないといけない」など、カタいことは考えないことです。

私もまさか自分が信仰を持つなんて、オルガンを始めた時には思ってもみませんでした。
でも神様は、人の想像に及ばない形で、人を洗礼へと導くことがあるのですね。

動機がなんであれ、教会はすべての人に開かれています。
すべての人、それはクリスチャンだけでなく、クリスチャンではない人、オルガンに興味のある人、宗教音楽に興味のある人、すべてを含んでいます。

キリスト教の神様は、キリスト教に興味のある人しか眼中にないなどという、狭い視野の方ではないのです。(笑)