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信仰か技術か?

部屋を片付けるのは難しい・・・

という書き出しで始めますが、本棚などを整理したり、床に落ちている本を本棚に入れようとして本棚を見ると、ついつい目に入った本を手に取って読み始めてしまいます。

今日は片付け中に「礼拝と音楽」No.138を手に取りました。
「説教と賛美」がテーマです。

奏楽者と牧師と信徒の間にそれぞれ思いや信条があって、お互いに共通の意見が持てないこともあります。
しかし同じ奏楽者の立場であってもお互いに意見が一致しないこともあります。
・・・で何を書きたいかというと、オルガンを使った礼拝が多い中で、奏楽者の立場でオルガン奏楽とは?と考えたいということです。

まがりなりにも奏楽者のためにオルガンレッスンをして早4年。
いろんな教派の奏楽者たちとお話しさせていただく機会がありました。

スイスでは一応は何らかの形で音楽教育を受けたオルガニストが礼拝で奏楽しますので日本とは状況が全く異なっています。

「一応何らかの形」というのは、音楽大学のオルガン科卒業のオルガニストだけでなく、スイスにはSMPVという、音大よりはレベル的に門戸の開かれた音楽教育機関があるのですが、そこのオルガン科卒業者でも教会オルガニストに応募することができます。

日本ではオルガン科を出なくても奏楽できます。
ここが大きなポイントです。

わたしは日本の音大出身者ではないので、日本に帰った時には日本の教会がどういうところかあまり知らずにいました。
日本にいた時には日本キリスト教団に所属する学校へずっと通っていたので、日キの教会の日曜学校にも通っていたこともありますが、特に事情に詳しいわけでもありませんでした。

わたしがこれから書くことは、すべての教会がそうであるということではないということと、しかしいくつかの教会でそういったことを耳にすることがある、ということをご理解いただいたうえでお読みください。


教会によって何人の奏楽者を抱えているかは異なってきますが、一人の奏楽者の考えによって、洗礼を受けてから1年間は奏楽をさせてもらえないルールのようなものがある教会があります。
教会生活に慣れる1年を待ってからのほうが本人の負担が少なくて良い、という考えからです。

その教会にオルガン委員長か主席オルガニストのような、はっきりとしたポストがあってその役職の人がそう考えるならまだわかるのですが、なんとなく長く弾いている人がボスのような存在になり、新人に対して弾かせて良いか単独で考えるのです。
その人の話では、オルガンを弾きたいだけの人には1年弾かせない、信仰がちゃんとできてから、教会生活に慣れてから弾かせる、とのことで、新しく来た人には今までもそうしてきたとのことでした。

ちゃんとした委員会を作って(またはすでにある役員会や長老会が)、オルガンが弾きたい人、弾ける人について、「みんなで」話し合ってその人に奏楽を任せるか話し合うべきだと思います。
音楽の賜物のある人が教会に来たときに、1年という杓子定規でもって決めて、その音楽の賜物を使わないという事態は避けるべきです。
というのは、すべては神様から頂いたものなので、個人の賜物はみんなの共有財産だからです。

信仰的にも未熟だからオルガン奏楽は任せられない、ということも考えられるでしょうが、人の心や行動、信仰は神様だけがよくご存知ですし、神様が判断すればよいのです。
「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」(マタイ20:16)こともあるのですから、先を走っているというだけであとの者の信仰を決めつけるようなことがあっては残念です。

それに、技術的に問題のない人にとってはたとえ毎週奏楽することになったとしても全く負担にもならないどころか、神様へ奉仕している喜びが大きいのです。

他人が人の信仰の度合いを測ったり、「奏楽奉仕をお願いするのは新来者にとって負担になる」と決めつけたりする必要はありません。

さて日本に戻ってきてから何度か耳にした議論「信仰か技術か?」です。

日本では音大を出なくても奏楽ができます。(もちろんスイスでも音大を出なかったから奏楽できない、ということではないのですが。)
そして自分の技術的な失敗に何度も苦々しい経験をした方も多いのかもしれません。

日本には、技術が伴っていなくても信仰が大事だから、技術だけがある人よりも信仰を持つ人が奏楽すべきだ、という議論があるのです。
スイスでは聞いたことのない議論です。

これには先の「礼拝と音楽No.138」の土橋薫先生の文章にもありますが、「信仰が技術か」という次元で奏楽を考える必要はありません。

土橋先生も書かれたことですが、奏楽に技術は不可欠で、真に説教を活かすためにはより良い奏楽が必要で、技術的問題の解決なしには良い奏楽はあり得ないということです。

しかしこれは音楽を専門としない人が信仰生活の中で長く奏楽者をつとめているのを否定することではありません。
大事なのは、技術か信仰かと、比べるような考え方をやめること、信仰の方が大事だと決め付けないことです。
音大のオルガン科出身であってもなくても、信仰と技術の面においてはみんなが個人の度合いによって発展途上なのです。

こう考えるのは私自身の経験があるからですが、同じ経験を土橋先生もされましたのでご紹介します。

土橋先生はドイツに留学なさいましたが、受洗していなかったころからオルガンをお手伝いしていました。
わたしもスイスでは受洗していなかったのに礼拝奏楽のお手伝いをさせていただきました。

日本では多くの場合考えられないことです。
ある日本の著名なオルガニストの本の中でも「信仰のない人が説教壇に立てないのと同じように、信仰のない者が奏楽にあたるなんてありえない。」と書いてあるのを目にします。

しかし、わたしが未信者でありながら礼拝奏楽させていただいて思ったのは、「キリスト教の神様は、信者・未信者に関係なくみんなを受け入れている、懐の広い神様なんだ」、ということでした。
奏楽をするにあたって教会暦や礼拝説教・讃美歌の内容について考えます。それを通して信仰が養われていったのだと思います。
これは事実なのです。こういう信仰の養われ方があるのだと知っていただけたらと思います。

そしてわたしは日本に帰ってきてから日曜学校でお世話になっていた教会で洗礼を受けることになりました。

何が人を信仰に導くのか、人にはわからないのです。
わたしには未信者でありながらもこうして教会で大事な役目を与えられたことが恵になりました。

よく音大出身者で信仰のない人は技術に走りがちで、礼拝にふさわしい曲を選んでいない、ということも聞きますが、だからといって奏楽をさせない、ではなく、ふさわしい奏楽とは何か?を実践の中で考えてもらえるような環境づくりが必要です。

多くの教会では高齢化が進んで、奏楽の準備が大変だという声も聞きます。
それならなお一層柔軟な考えで若い方を奏楽に加える機会を作ってほしいのです。
始めから一人ですべての奏楽を任せるのは負担をかけることにもつながりますから、一つの礼拝の中で二人が半分ずつ曲を担当するとか、いろいろな柔軟な方法を考えてほしいです。

ルター派では「もっとも自分が効果的と思った、素晴しいと思った方法で神を賛美するために音楽がある」と考えられています。

「信仰か技術か」ではなく、「両方目指していく」と考えられたら、と思います。

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