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「クリスマスやアドヴェントにお勧めの曲を教えてください」の回答

何人かの方から、もうアドヴェントやクリスマスの曲のお問い合わせをいただきました。
「ペダルが少し入っている曲が良いなあ」というお問い合わせもありました。
わたしがお勧めしているのは、日本キリスト教団出版局の「讃美歌21による礼拝用オルガン曲集 全六巻」です。
基本的には手鍵盤で弾けるけれども、曲によってはペダルで弾けるようなのもあります。
第4巻26ページにはアドベントの「久しく待ちにし」をペータースが作曲したものがありますが、これはわたしが好きな曲の一つです。ただし原曲と音の違うところがあります。一小節目ソプラノに「レミレシラ」とありますが、「レミドシラ」です。
ペータースは教会暦にふさわしい曲をたくさん作っていますが、弾くのが難しい物もあります。その中で、「久しく待ちにし」はすぐに弾ける曲です。
「曲の雰囲気がわからないのでレジストレーションがわからない」というお問い合わせもいただきますのでCDを参考にしてみてください。

楽譜
    

CD
    
    

「オルガンを弾くと腰が痛い」という問い合わせへの回答

「オルガンを弾く時に腰が痛くなります」というお問い合わせを時々いただきます。
オルガンを始めたばかりの生徒からそういわれることもありますし、「礼拝奏楽をしているんだけれど」という遠方の方からメールでそう質問されることもあります。
生徒の場合は最初のうちにオルガンの椅子(ベンチ)の位置について注意をしていただくので、割とすぐに大丈夫になります。
メールでの問い合わせではどんな状態で弾かれているのかわからないので、こちらの想像で回答するしかありません。

多くの場合、ベンチが鍵盤から遠くに置かれているときに、腰が痛くなるようです。
なぜベンチを鍵盤から離して置くかというと、ペダルと見ながら足を動かしたいから、です。
足の動きを見たいので、見られるようにスペースを広く取るんですね。
でもそういう座り方をすると、上半身が斜めになってしまったり、ベンチから体が滑り落ちやすくなったりして、腰やほかの部位に力が入ってしまいます。
だから「基本的にはペダルを見ながら弾くという考え方をやめてください」と申し上げています。
ペダルのソロの部分や、足鍵盤の音の飛ぶところ、どうしても弾きにくいところで「チラ見」するのは良いと思うのですが、ガッツリずっと見ながら弾くということは絶対にやめましょう。
「ペダルは見ない」と考えれば、ベンチをもっと座りやすい位置(鍵盤の近く)に置いて、普通にテーブルの椅子に座るように座ることができます。
「オルガンを弾くと体が痛い、腰が痛い」という人は、ベンチの位置を鍵盤の近くに置いてみることをお勧めします。

教会楽譜ライブラリーを共有できないものか?

オルガン仲間のマキさんがfacebookで、

それにしても、輸入楽譜は高額過ぎますね。
プロを含めて教会では「奉仕」が多い奏楽者には、なかなか薦められない・・・。

と書いてあるのを目にして、わたしにも身に覚えがあると思い、ブログに提案を書くことにしました。

輸入楽譜も含め、オルガン楽譜はとにかく高いというイメージがわたしにもあります。
日本キリスト教団出版局から出ている楽譜は安い方なので良心的と思います。
しかし他に弾きたい曲があって、またはちょっと見てみたい楽譜があって、楽譜を手に入れたいんだけど、昨今は著作権の意識も高まり、やはりコピーで手に入れるのではなく、なるべく買った方がいいなと音楽家も思うと思うのですが、
公立の図書館にお目当ての楽譜がないことも多々ありますので、「ちょっと見てみたい」レベルの楽譜であっても、値段は高くても自分で購入ということになります。

わたしの所属する教会には、オルガン楽譜ライブラリーがありますが、あるオルガニストの勧めによってそろえられた楽譜たちは、わたしの教会の奏楽者たちにはレベルが高すぎて参考にならず、結局はそれぞれの奏楽者が個人で持っている楽譜だけが頼りで、そこから選曲して礼拝で弾いています。
そして中にはいつも同じ曲を前奏後奏で弾く人も。
新曲に取り掛かる時間がないから、という理由もありますが、もっと簡単な曲の楽譜があるということを知らないという理由もあるんですね。

わたしは演奏会やその他の集会の奏楽で他教会に出向くことがあり、それぞれの教会の奏楽者とお話ししたり、オルガン楽譜ライブラリーがあれば少し見させてもらうのですが、教会によっては充実したライブラリーがあり、いいなあと思うことがあります。
中にはとても古い楽譜もありまして、演奏解釈の点から疑問だらけの楽譜もそのまま持ち続けている場合も見かけます。
「解釈が間違っているから」という理由で参考にならない楽譜は、楽譜にごめんなさいして破棄する勇気も必要と思います。

オルガン楽譜は私の場合はササヤ書店http://www.gakufu.net/でお世話になったり、アマゾンで見てみたり、スイスやドイツの楽譜屋さんや出版社に直接問い合わせて、オルガン楽譜やオルガン関連書籍を手に入れるのですが、手に入れてみて初めて「思ってた物と違った」と、ちょっと後悔したりすることがあります。

名古屋では実物を手に取って考えてから買えるような、オルガン楽譜・関連書籍の充実した楽譜屋さんがないので、人から聞いて「この楽譜・本、良かったよ」って言われたら、そのまま上記の楽譜屋さんから取り寄せということになります。

今までたまたまそうだったのですが、ササヤ書店さんや、スイス・ドイツの楽譜屋さんや出版社に問い合わせてはずれだったことはないのですが、アマゾンで頼んだものが、イメージと違ったということがありました。
わたしの事前の情報収集不足と言えばそれまでですが、やはり実物を見てから買いたいものです。

そこで、教会で保管してある楽譜のタイトルや出版社をネットで公表して、その教会に行けばこの楽譜が見られる、という風にできないものでしょうか。
住んでいるところから遠ければ無理ですが、近くの教会で「あ、わたしの探している楽譜があった」とわかれば、一度その教会にお邪魔して、楽譜を実際に見てから購入するかどうか判断できると思うんです。

わたしは地区の音楽講習会でお手伝いさせていただくことがあり、その時に受講生には「こんな楽譜がありますよ」とお勧めしたいので、自然と楽譜購入の機会が多くなります。
まさかタイトルだけ見て「これ良いですよ」なんて言えませんもの。
自分で実際に使って、値段と内容が合っているか?を判断して、そのうえで良いと思うものを受講生に薦めたい。
勧める時にはその楽譜の実物を皆さんに見てもらいたい。

教会のライブラリーの所蔵楽譜が公開されていれば、受講生として講習会に参加する奏楽者も、自分の足で他教会にお邪魔して楽譜を見ることもできますね。

なぜ奏楽の奉仕だけは頼まないのか?

ずいぶん前にこんなことを書いたことがあります。

http://organistin.blog60.fc2.com/blog-entry-133.html

ここでは教会に所属したばかりの人に最初の1年は奏楽奉仕をさせない、長年奏楽をしている人がそう決めている教会があることについて触れました。
また、受洗していない人に奏楽奉仕をさせないことについてもほかのところでも何度も書いてきました。

そのことについてご覧くださった方がコメントを下さったので、ここでお答えしたいと思います。
その方のコメントをすべて載せず、一部取り上げてお答えします。

ご意見お寄せくださり、感謝していることを先に申しあげます。

その方は、求道者だった時からどのような奉仕にかかわってきたかを書いて下さった上で、奏楽までさせるのは大変なことが多いので、奏楽させないこともありではないか、という内容です。

>「その人の信仰が安定するのを待ってあげる」という意味で、奏楽を、受洗していないならさせない、あるいは、受洗してから1年たたない人は奏楽させない、という配慮ならば、大いに納得できるものがありますね。
求道者というものは、神様に会いたいばかりに、毎週のように(熱心に)教会に通ってきます。しかし、周囲のベテランの教会員は、そういう人は、毎週くるので、「熱心なかただ」と思ってしまい、どんどん教会での役割を与えていってしまいがちです。たとえば、バザーの手伝いとかならまだかわいいですが、そのうち、わたしのように、教会学校のスタッフを
やらされたり、わたしは受洗前から青年会の会長をやらされましたね、それから、奏楽をやらされたり、、、。
しかし、当時、求道者であったわたしとしましては、純粋に、信仰を求めて、教会に行っているだけなのに、つぎつぎといろいろな役を与えられて、(実際に当時の牧師に相談いたしましたけれども、)両手、両足をみんなからひっぱられて無理やり前へ持っていかれるような感じがあり、「そんなに速く歩けないよ~」という感じでした。
ですから、受洗していない人に奏楽させない、というのもそういう配慮ならば、よくわかりますね。

そうですね、わたしもそういう配慮があってもよいと思います。
でも不思議なのは、今までこのブログでこういうテーマを取り上げるに至るきっかけとなった教会では、毎週教会に来ていてまるで教会員であるかのようになった求道者、洗礼を受けて間もない人に対して、青年会(青年会長)、日曜学校教師、日曜礼拝の奏楽をお願いするのに(中には日曜学校奏楽も求道者にお願いしない教会もありますが)、主日礼拝での奏楽だけは「最初の一年は奏楽させない」のです。
なぜでしょうか?
日曜学校の奏楽はやってもいいけど主日礼拝ではさせないという考え方を持っている人がいますが、それは日曜学校の礼拝は正式な礼拝とは認めていないという、無意識の考えが反映しているのではないでしょうか?
他の理由として、あまりはっきり言うのは角が立ったりボス奏楽者を傷つけてしまうことになるので明るみに出さないことが多いのですが、あるボス奏楽者の場合は、自分が音楽の専門家ではないことをひそかにコンプレックスに思っていて、音大オルガン科出身の人が受洗して、周りのみんなは奏楽をしてもらうことを当然期待するのですが、そのボス奏楽者は自分の立場が危うくなると心配して弾かせないということです。とくにこういう人の場合、仕事をしていないなど、社会との接点がなく、教会だけが自分の居場所になっているときにその傾向が顕著になります。
奏楽はどうしても技術が見えやすい奉仕で、人の目にわかりやすく映るためにこういうことが起こるんだと思います。
先の例に出しましたそのボス奏楽者のほうが、音大オルガン科出身の受洗者よりもウン十年長くクリスチャンやっているのに、自分を守るために実力のある人を認めようとしない。
信仰の弱さが目立ってしまって残念です。人間の弱さといってしまえばその通りですが。

だから以前のブログで

「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」(マタイ20:16)

と書いたのです。

技術的に問題のない人にとってはたとえ毎週奏楽することになったとしても全く負担にもならないどころか、神様へ奉仕している喜びが大きいことが明らかでも、奏楽をさせないことは適切でしょうか?

自分の立場を守ることに目がくらんで、他人が人の信仰の度合いを測ったり、「奏楽奉仕をお願いするのは新来者にとって負担になる」と決めつけたりする必要があるでしょうか?
(それなのに、自分の立場が危うくならない奉仕(たとえば青年会の奉仕、日曜学校教師の奉仕など)はどんどん頼んでくるのです。)
奏楽奉仕が負担になるかどうかは、頼まれた人が自分で決めることです。嫌なら断ればよいだけのことです。
他の奉仕でもそうだと思います。
わたしも今の教会に所属した最初のころは、奏楽奉仕、日曜学校教師、青年会奉仕など、いろいろ頼まれましたが、自分にとって興味のある奉仕や、負担にならないだろう奉仕だけ引き受けさせてもらいました。
(いきなり全部はどう考えても無理だと思ったので。)
不思議なのは、先にも書きましたように、いろいろな奉仕はすぐにお願いされるのに、教会音楽を専門機関で勉強して知識のある人・弾ける人に対して主日礼拝の奏楽の奉仕だけは最初の1年頼まない教会があるということです。
明らかにふさわしい人が来たのに、他者が弾かせないと決める必要はないと思います。
むしろ、専門の知識や技術のある人が来たら、長年奏楽していようが、「オルガンを教えてください」という姿勢を持つことのほうが、教会的ではありませんか?
受洗していない人・受洗して間もない人に奏楽奉仕が負担になるだろうと考えるのに、ほかの奉仕はどんどん頼んでくるのは納得できないなあと思います。
そもそもどの奉仕をするかは本人で決めたらよいと思います。

この度はご意見くださいましてありがとうございました。
またのご意見お待ちしております。

Intonationen

明日も奏楽当番なので、讃美歌の前奏をどう弾こうか思案中。
日本の多くの場合は、讃美歌伴奏というと1節全部を弾いたりだとか、最初と最後の数小節をつなげて弾くことが多いかな。
わたしも今までそうしていたのですが、どうしても自分がマンネリ感を感じずにはおれんので、今年の夏ごろから讃美歌前奏を二声か三声のフゲッタにして弾いています。
讃美歌前奏では、テンポやメロディーを会衆に伝えないといけないので音価は讃美歌通りにしています。

ヨーロッパでは讃美歌伴奏用の本がありますね。
スイスだとIntonationen zum Reformierten Gesangbuch für Orgel und Klavierっていう赤い本がプロテスタント教会に置いてあって、一つの讃美歌につき1曲または数曲の前奏が載っています。
カトリックだと青い本。

今通っている教会では一節を讃美歌前奏として弾くことに一応なっていますが、一節全部を弾くのは(わたしは)長く感じてしまいます。
だって4節ある讃美歌だと5回も同じメロディーを耳にするわけで、なにも変化がないならつまらないとしか言いようがないので。
讃美歌を選ぶのは牧師ですが、讃美歌はどうしてもみんなが知っている曲、歌ったことのある曲、愛唱歌にされやすい曲が選ばれる傾向にあり、礼拝では一生のうち何度も同じ讃美歌を歌うことになります。
だから、その上で前奏も讃美歌1節弾くと、弾いている自分としては飽きてしまいます。

これからも礼拝で何か工夫できるよう頑張っていきます。