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教会楽譜ライブラリーを共有できないものか?

オルガン仲間のマキさんがfacebookで、

それにしても、輸入楽譜は高額過ぎますね。
プロを含めて教会では「奉仕」が多い奏楽者には、なかなか薦められない・・・。

と書いてあるのを目にして、わたしにも身に覚えがあると思い、ブログに提案を書くことにしました。

輸入楽譜も含め、オルガン楽譜はとにかく高いというイメージがわたしにもあります。
日本キリスト教団出版局から出ている楽譜は安い方なので良心的と思います。
しかし他に弾きたい曲があって、またはちょっと見てみたい楽譜があって、楽譜を手に入れたいんだけど、昨今は著作権の意識も高まり、やはりコピーで手に入れるのではなく、なるべく買った方がいいなと音楽家も思うと思うのですが、
公立の図書館にお目当ての楽譜がないことも多々ありますので、「ちょっと見てみたい」レベルの楽譜であっても、値段は高くても自分で購入ということになります。

わたしの所属する教会には、オルガン楽譜ライブラリーがありますが、あるオルガニストの勧めによってそろえられた楽譜たちは、わたしの教会の奏楽者たちにはレベルが高すぎて参考にならず、結局はそれぞれの奏楽者が個人で持っている楽譜だけが頼りで、そこから選曲して礼拝で弾いています。
そして中にはいつも同じ曲を前奏後奏で弾く人も。
新曲に取り掛かる時間がないから、という理由もありますが、もっと簡単な曲の楽譜があるということを知らないという理由もあるんですね。

わたしは演奏会やその他の集会の奏楽で他教会に出向くことがあり、それぞれの教会の奏楽者とお話ししたり、オルガン楽譜ライブラリーがあれば少し見させてもらうのですが、教会によっては充実したライブラリーがあり、いいなあと思うことがあります。
中にはとても古い楽譜もありまして、演奏解釈の点から疑問だらけの楽譜もそのまま持ち続けている場合も見かけます。
「解釈が間違っているから」という理由で参考にならない楽譜は、楽譜にごめんなさいして破棄する勇気も必要と思います。

オルガン楽譜は私の場合はササヤ書店http://www.gakufu.net/でお世話になったり、アマゾンで見てみたり、スイスやドイツの楽譜屋さんや出版社に直接問い合わせて、オルガン楽譜やオルガン関連書籍を手に入れるのですが、手に入れてみて初めて「思ってた物と違った」と、ちょっと後悔したりすることがあります。

名古屋では実物を手に取って考えてから買えるような、オルガン楽譜・関連書籍の充実した楽譜屋さんがないので、人から聞いて「この楽譜・本、良かったよ」って言われたら、そのまま上記の楽譜屋さんから取り寄せということになります。

今までたまたまそうだったのですが、ササヤ書店さんや、スイス・ドイツの楽譜屋さんや出版社に問い合わせてはずれだったことはないのですが、アマゾンで頼んだものが、イメージと違ったということがありました。
わたしの事前の情報収集不足と言えばそれまでですが、やはり実物を見てから買いたいものです。

そこで、教会で保管してある楽譜のタイトルや出版社をネットで公表して、その教会に行けばこの楽譜が見られる、という風にできないものでしょうか。
住んでいるところから遠ければ無理ですが、近くの教会で「あ、わたしの探している楽譜があった」とわかれば、一度その教会にお邪魔して、楽譜を実際に見てから購入するかどうか判断できると思うんです。

わたしは地区の音楽講習会でお手伝いさせていただくことがあり、その時に受講生には「こんな楽譜がありますよ」とお勧めしたいので、自然と楽譜購入の機会が多くなります。
まさかタイトルだけ見て「これ良いですよ」なんて言えませんもの。
自分で実際に使って、値段と内容が合っているか?を判断して、そのうえで良いと思うものを受講生に薦めたい。
勧める時にはその楽譜の実物を皆さんに見てもらいたい。

教会のライブラリーの所蔵楽譜が公開されていれば、受講生として講習会に参加する奏楽者も、自分の足で他教会にお邪魔して楽譜を見ることもできますね。
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なぜ奏楽の奉仕だけは頼まないのか?

ずいぶん前にこんなことを書いたことがあります。

http://organistin.blog60.fc2.com/blog-entry-133.html

ここでは教会に所属したばかりの人に最初の1年は奏楽奉仕をさせない、長年奏楽をしている人がそう決めている教会があることについて触れました。
また、受洗していない人に奏楽奉仕をさせないことについてもほかのところでも何度も書いてきました。

そのことについてご覧くださった方がコメントを下さったので、ここでお答えしたいと思います。
その方のコメントをすべて載せず、一部取り上げてお答えします。

ご意見お寄せくださり、感謝していることを先に申しあげます。

その方は、求道者だった時からどのような奉仕にかかわってきたかを書いて下さった上で、奏楽までさせるのは大変なことが多いので、奏楽させないこともありではないか、という内容です。

>「その人の信仰が安定するのを待ってあげる」という意味で、奏楽を、受洗していないならさせない、あるいは、受洗してから1年たたない人は奏楽させない、という配慮ならば、大いに納得できるものがありますね。
求道者というものは、神様に会いたいばかりに、毎週のように(熱心に)教会に通ってきます。しかし、周囲のベテランの教会員は、そういう人は、毎週くるので、「熱心なかただ」と思ってしまい、どんどん教会での役割を与えていってしまいがちです。たとえば、バザーの手伝いとかならまだかわいいですが、そのうち、わたしのように、教会学校のスタッフを
やらされたり、わたしは受洗前から青年会の会長をやらされましたね、それから、奏楽をやらされたり、、、。
しかし、当時、求道者であったわたしとしましては、純粋に、信仰を求めて、教会に行っているだけなのに、つぎつぎといろいろな役を与えられて、(実際に当時の牧師に相談いたしましたけれども、)両手、両足をみんなからひっぱられて無理やり前へ持っていかれるような感じがあり、「そんなに速く歩けないよ~」という感じでした。
ですから、受洗していない人に奏楽させない、というのもそういう配慮ならば、よくわかりますね。

そうですね、わたしもそういう配慮があってもよいと思います。
でも不思議なのは、今までこのブログでこういうテーマを取り上げるに至るきっかけとなった教会では、毎週教会に来ていてまるで教会員であるかのようになった求道者、洗礼を受けて間もない人に対して、青年会(青年会長)、日曜学校教師、日曜礼拝の奏楽をお願いするのに(中には日曜学校奏楽も求道者にお願いしない教会もありますが)、主日礼拝での奏楽だけは「最初の一年は奏楽させない」のです。
なぜでしょうか?
日曜学校の奏楽はやってもいいけど主日礼拝ではさせないという考え方を持っている人がいますが、それは日曜学校の礼拝は正式な礼拝とは認めていないという、無意識の考えが反映しているのではないでしょうか?
他の理由として、あまりはっきり言うのは角が立ったりボス奏楽者を傷つけてしまうことになるので明るみに出さないことが多いのですが、あるボス奏楽者の場合は、自分が音楽の専門家ではないことをひそかにコンプレックスに思っていて、音大オルガン科出身の人が受洗して、周りのみんなは奏楽をしてもらうことを当然期待するのですが、そのボス奏楽者は自分の立場が危うくなると心配して弾かせないということです。とくにこういう人の場合、仕事をしていないなど、社会との接点がなく、教会だけが自分の居場所になっているときにその傾向が顕著になります。
奏楽はどうしても技術が見えやすい奉仕で、人の目にわかりやすく映るためにこういうことが起こるんだと思います。
先の例に出しましたそのボス奏楽者のほうが、音大オルガン科出身の受洗者よりもウン十年長くクリスチャンやっているのに、自分を守るために実力のある人を認めようとしない。
信仰の弱さが目立ってしまって残念です。人間の弱さといってしまえばその通りですが。

だから以前のブログで

「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」(マタイ20:16)

と書いたのです。

技術的に問題のない人にとってはたとえ毎週奏楽することになったとしても全く負担にもならないどころか、神様へ奉仕している喜びが大きいことが明らかでも、奏楽をさせないことは適切でしょうか?

自分の立場を守ることに目がくらんで、他人が人の信仰の度合いを測ったり、「奏楽奉仕をお願いするのは新来者にとって負担になる」と決めつけたりする必要があるでしょうか?
(それなのに、自分の立場が危うくならない奉仕(たとえば青年会の奉仕、日曜学校教師の奉仕など)はどんどん頼んでくるのです。)
奏楽奉仕が負担になるかどうかは、頼まれた人が自分で決めることです。嫌なら断ればよいだけのことです。
他の奉仕でもそうだと思います。
わたしも今の教会に所属した最初のころは、奏楽奉仕、日曜学校教師、青年会奉仕など、いろいろ頼まれましたが、自分にとって興味のある奉仕や、負担にならないだろう奉仕だけ引き受けさせてもらいました。
(いきなり全部はどう考えても無理だと思ったので。)
不思議なのは、先にも書きましたように、いろいろな奉仕はすぐにお願いされるのに、教会音楽を専門機関で勉強して知識のある人・弾ける人に対して主日礼拝の奏楽の奉仕だけは最初の1年頼まない教会があるということです。
明らかにふさわしい人が来たのに、他者が弾かせないと決める必要はないと思います。
むしろ、専門の知識や技術のある人が来たら、長年奏楽していようが、「オルガンを教えてください」という姿勢を持つことのほうが、教会的ではありませんか?
受洗していない人・受洗して間もない人に奏楽奉仕が負担になるだろうと考えるのに、ほかの奉仕はどんどん頼んでくるのは納得できないなあと思います。
そもそもどの奉仕をするかは本人で決めたらよいと思います。

この度はご意見くださいましてありがとうございました。
またのご意見お待ちしております。

Intonationen

明日も奏楽当番なので、讃美歌の前奏をどう弾こうか思案中。
日本の多くの場合は、讃美歌伴奏というと1節全部を弾いたりだとか、最初と最後の数小節をつなげて弾くことが多いかな。
わたしも今までそうしていたのですが、どうしても自分がマンネリ感を感じずにはおれんので、今年の夏ごろから讃美歌前奏を二声か三声のフゲッタにして弾いています。
讃美歌前奏では、テンポやメロディーを会衆に伝えないといけないので音価は讃美歌通りにしています。

ヨーロッパでは讃美歌伴奏用の本がありますね。
スイスだとIntonationen zum Reformierten Gesangbuch für Orgel und Klavierっていう赤い本がプロテスタント教会に置いてあって、一つの讃美歌につき1曲または数曲の前奏が載っています。
カトリックだと青い本。

今通っている教会では一節を讃美歌前奏として弾くことに一応なっていますが、一節全部を弾くのは(わたしは)長く感じてしまいます。
だって4節ある讃美歌だと5回も同じメロディーを耳にするわけで、なにも変化がないならつまらないとしか言いようがないので。
讃美歌を選ぶのは牧師ですが、讃美歌はどうしてもみんなが知っている曲、歌ったことのある曲、愛唱歌にされやすい曲が選ばれる傾向にあり、礼拝では一生のうち何度も同じ讃美歌を歌うことになります。
だから、その上で前奏も讃美歌1節弾くと、弾いている自分としては飽きてしまいます。

これからも礼拝で何か工夫できるよう頑張っていきます。

どのように日本語で発音するか・・・

J.S.バッハの「オルガン小曲集」という曲集は、オルガンを習っている人ならその中の数曲を弾いたことがあるか、または名前を聞いたことがあるかと思います。
Orgelbuechlein(Orgelbüchleinという綴りですが、パソコンがウムラウト対応で無い時はeをウムラウトの代わりに使います)は、カタカナで書くなら「オルゲル・ビュッヒライン」です。
Buchはブーフと言って、本と言う意味ですが、-leinには小さいモノという意味がありますので、日本語に訳すと「小曲集」となっています。
よく、オルゲル「ブッフェライン」とか、「ビュッヘライン」とか、「ビュッフェライン」とか、「ブッヒライン」と発音してしまう人がいるようですが、「ビュッヒライン」です。

教会音楽の問題は、奏楽者だけのものではないと思います。

一か月にひとつの記事をブログに載せないと、このブログには宣伝が載ってしまうので、自分のお尻を叩くには良い制度だと思っています(笑)
いやいや、本当は書きたいことはいくつかあるのですが、なかなかうまくまとめられなかったり時間がないと自分に言い訳したりで、更新が滞っています。

先日拙宅ですご~~く面白い会合を持ちました。
東北、関東、東海、関西から10名を超える教会礼拝奏楽者が集まったのです。
参加者の約半数は音大オルガン科出身の奏楽者です。
参加者の約半数は音大オルガン科出身ではありませんが、奏楽の奉仕につながり、日々奏楽について考えてくださっている方々です。日本ではこういう方々が教会の礼拝を支えてくださっています。
プロ・アマ超えて、奏楽者として日頃教会で感じていることをたくさん話し合い、多くのことは、「実は他の人も同じように思っているのね」という内容でした。
意識の高い奏楽者が多くいて、奏楽のことを一生懸命考えていて、初対面同士の人も多かったですが、すぐに一体感に包まれました。
それぞれの教会でのことや、他教会でも自分の良く知っている教会の現状を話し合いました。

・オルガンやオルガン音楽について全く知らない役員・長老が、「オルガン委員会」なるものを作ってメンバーになるので、理想のパイプオルガン管理ではなくなる。
つまり、値段の高い楽器なので、他教会の人には触らせないようにしているという現状がある。
また、奏楽者であっても、パイプオルガンを教会に入れたとたんに「自分のオルガン」という意識になり、閉鎖的な教会にしてしまう。
しかし、本来はパイプオルガンは良く練習し、風を通すことによって健康なオルガンになるのです。
奏楽者以外の人もオルガン委員会に加わって、教会全体でオルガン導入・管理を話し合う必要がありますが、奏楽者もそうでない信者も、オルガン音楽とオルガンについての学びが必要だと思います。

・奏楽者同士でレベルの差があるが、突出してレベルが高いと、出る杭は打たれるとなってしまい、奏楽者間のコミュニケーションがなくなる。ライバル視してしまい、お互いに高めあうという健全な姿勢が失われる。ただその教会でいちばん長く弾いているというだけで、オルガン長になってしまい、間違ったアドバイスを他の奏楽者にしてしまう。

・「わたしはプロじゃないから」と言って、上達しない。その割には、「礼拝奏楽は信仰のある人が弾くべき」と言って、いくらその教会の奏楽者よりも上手な未信者がいてもも礼拝でオルガンを弾いてもらうことを拒んでしまう。
未信者でも、礼拝のオルガン音楽に興味を持っている人は意外と多い。
そういう人たちはたとえ未信者であっても、というか、未信者であるからこそ!?自分にとって非日常であるキリスト教の行事に一定のリスペクトを持っていることがあります。
礼拝が当たり前となっている信者の奏楽者よりも、礼拝が特別であると感じている未信者の方が讃美歌をもっと練習してくれることは多々ありますが、信者さんの方がそれをわかろうとはしないことがあります。
讃美歌の練習を通して、キリスト教を学べるのに・・・

・教会外ではアマチュア合唱団がミサ曲などの教会音楽を歌って演奏しているが、本来ならば「キリエ」「グローリア」などのタイトルがついているにもかかわらず「第1楽章」「第2楽章」と呼んでいる。礼拝の中でミサ曲を歌うなどの実習があれば、未信者にも教会音楽やキリスト教について理解が深まるのに、と思う。

・「信仰が大事」とよく言われるが、それがかえって未信者排除につながり、伝道の邪魔になっている。
本来なら、信仰があるならその信仰を練習につなげるべきである。
教会外の方が教会音楽が盛んという現状がある。
教会音楽は宣教・伝道であり、音楽を通してキリスト教を学べるということを、教会の人が良くわかっていない。


・パイプオルガンが弾きたいがために、近くの教会に行かずに、途中沢山の教会をすっ飛ばして片道1時間かけてパイプオルガンの教会に所属する奏楽者がいる。しかも、自分がオルガン当番ではないときには教会に来ない。こういう人は信仰があると言えるのかどうか?未信者でも礼拝のことを学ぼうとする姿勢で、オルガンも習っている人がいるのに・・・

・聖歌隊が練習をしていて、昼食の皿洗いのお手伝いをしなかったら、他の信者から「歌だけ歌っていればそれでいいと思っているの?」と言われた。マルタとマリアになっている。
本来は昼食と皿洗いの奉仕よりも教会音楽の方が大事だということを知らない人が多い。
旧約聖書にも新約聖書にも、礼拝の為にオーケストラがどのように編成されたとか、讃美の歌を歌うことの大切さが書かれている。
音楽は礼拝に直結する奉仕だから、本来は昼食よりも聖歌を歌う練習が優先されるべきである。
また、教会から音楽講習会に補助金を出していたら、生花を聖壇に飾る奉仕の人から「なぜ音楽だけ教会から補助が出て、生花のレッスンには補助が出ないのか?」と言われた。
多くの信者に、礼拝学の学びの欠如がある。

・神学校では音楽の授業が選択制になっているところもあり、牧師自身が音楽を知らない場合がある。
「カンタータって何?コラールって何?牧師なら知ってなきゃいけない事ですか?」と発言する牧師もいる。
自国語で讃美歌を歌うことを勝ち得たプロテスタントなら、知っておかなければならないのですが・・・?


オルガニスト養成にいくらお金がかかっているか、そして礼拝で無料で奏楽奉仕している現状をすべての信者に考えてもらいたい。

・一時間の礼拝に集中し続けるのは大変なので、もともと一人で一時間弾けない人、いつもたくさん弾き間違いのある人は、2人や3人の奏楽者で一つの礼拝の奏楽をすることも可能である。

・弾けない奏楽者に奏楽を辞めてもらうタイミング、病気を持っていて奏楽がままならないのに奏楽を続けたいと思っている人にどうやって奏楽を辞めてもらうかということのむずかしさ。
高齢で弾けない人が、ずっと奏楽を続けていたので自分の生きがいになっていたり、若いころにピアノを習っていたというプライドがあったり(高齢者が子どものころはピアノが習えたというのは確かに「贅沢」なことであり、プライドを高める出来事だったのは理解できます。)して、自分から辞めると言わないことが多いようです。
じゃあ辞めたら辞めたで、場合によっては辞めた途端に認知症になったりすることもあるそうです。
すでに讃美歌の伴奏という体をなしておらず、どこを伴奏しているのかも聞いている方にはわからないということでは、奏楽はやめるべきです。中には、自分のボケ防止、指の訓練の為に奏楽していると言っている高齢者もいるほどで、礼拝の讃美をリードするという役割をすっかり忘れ、自分のためにやっている人もいます。
そんな気持ちで奏楽して、しかも全然弾けてない・・・聴いている方としてはそういう奏楽者は辞めてもらいたい。
しかし、それをどう傷つけずに伝えられるか?

また、心の病を持っている方で、奏楽当日に奏楽ができないとドタキャンになったりして、急遽ヒムプレーヤーでの礼拝になることも。
そういう風では奏楽をお任せすることは難しいです。
でも本人が気づいていないこともあり、周りが伝えるのが難しいことが多いです。

・理想としては、礼拝5分前に讃美歌の番号を言われても形にして伴奏できるレベルになること。

・オルガンが弾けないけれどピアノは弾ける人もいるので、ピアノでの奏楽の可能性も考えたい。

会ではほかにもいろいろな現状が伝えられましたが、ごく一部をここでは書きました。
すべての教会が↑のようではないのですが、多かれ少なかれあてはまる部分は無いか・・・自分の教会ではどうなのか?と考えたいものです。
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